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宮崎大学 土呂久歴史民俗資料室ヒ素中毒

宮崎大学 土呂久歴史民俗資料室

土呂久と公害の概要

宮崎県高千穂町土呂久は、祖母・傾連山の標高400~800mの谷間の集落です。2021年2月現在の住民は65人で、40代以下は5人だけ、深刻な過疎・高齢化に苦悩しています。かつて鉱山が操業し、800人が住んでいた頃のにぎわいを思い描くのは困難です。
現在の自然豊かな美しい風景から、鉱山で猛毒の亜ヒ酸が製造されて、大気と水と土壌が汚染され、多数の労働者と住民が慢性ヒ素中毒症に苦しんだ過去を想像するのは容易ではありません。

(閉山から10年後、土呂久の人たちは有害な鉱物をふくむ廃石の山のそばで暮らしていました=1972年撮影)

土呂久で亜ヒ酸製造が始まったのは1920年。アメリカの綿花畑に散布する殺虫剤の原料として需要が増えたことが背景でした。33年から軍用機メーカー中島飛行機の系列鉱山がスズを主産物、亜ヒ酸を副産物として製造しました。戦争の時代に、亜ヒ酸は瀬戸内海の大久野島に運ばれて、陸軍の秘密工場で毒ガスの原料として使われました。
土呂久の住民は自治組織「和合会」に結集し、亜ヒ酸の製造をやめるよう抗議と陳情を繰り返し、41年には中止に追い込み、戦後に亜ヒ酸製造が再開される時は、村人が一致して反対しました。煙害問題を討議した記録は、和合会の議事録に残されています。
地元の小学校教師が埋もれていた公害を調査、教育研究集会で報告し、社会問題として浮上しました。環境省は73年に慢性ヒ素中毒症を4番目の公害病に指定、2021年2月までに210人の患者が認定されています。最終鉱業権者の住友金属鉱山を相手に健康被害の償いを求めた土呂久訴訟は、1990年に最高裁で和解しました。

(亜ヒ焼き窯から100メートルのところに、一家7人が死滅した喜右衛門屋敷がありました)

この資料館だからこそ学べる特徴

土呂久の地質、自然、暮らし、山岳宗教、山間地農業の歴史、銀山時代の繁栄、亜ヒ酸製造がもたらした公害、健康被害と補償、環境破壊と復元、アジアで展開する国際協力、現在直面している過疎……。資料を手に取り、次のことを学ぶことができます。

1.自然と人間の共生の歴史
2.集落を運営する共同体の役割と機能
3.産業活動による環境破壊と健康被害 / 環境復元と被害補償
4.公害患者救済の経験を活かした国際協力
5.環境を保全しながら進める持続的な地域の発展、など