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新潟県立環境と人間のふれあい館 -新潟水俣病資料館-水俣病

新潟県立環境と人間のふれあい館 -新潟水俣病資料館-

新潟水俣病と施設の概要

新潟県立環境と人間のふれあい館1排水口
新潟水俣病は、1956(昭和31)年に熊本県水俣市で最初に発見された水俣病から、9年後の1965(昭和40)年に、新潟県の阿賀野川流域で患者が確認され、第2の水俣病とも言われています。

新潟水俣病は、河口から約60km上流の昭和電工(株)鹿瀬工場の排水に含まれていたメチル水銀や無機水銀(排出された後、細菌の働きによりメチル水銀に変わる。)に汚染された魚介類を長期間、多く食べたことによって起きた神経系の病気で、被害者がわが国初の本格的公害裁判を起こすなど、阿賀野川流域で最初の患者が確認されて現在に至るまで、この地域に深刻な影響を及ぼしています。

その間の救済対策として、「公健法」に基づく水俣病患者の認定、さらに水俣病総合対策事業が開始され、同地域における健康上の問題の軽減が図られていますが、偏見や中傷を受けたり、苦しんでいる被害者の方々が、いまだにいらっしゃる現状があります。

新潟県では「新潟水俣病地域福祉推進条例」を制定し、新潟水俣病患者の福祉の増進や、新潟水俣病発生地域の再生と融和などを目的とした様々な施策を進めるとともに、県立環境と人間のふれあい館を拠点とした新潟水俣病の経験と教訓を後世に伝える取り組みを行っています。

この資料館だからこそ学べる特徴

新潟水俣病と水環境をテーマにした施設です。新潟水俣病の経験と教訓を後世に伝えるとともに、水の視点から環境を育み、公害の根絶と環境保全の重要性を認識していただきたいと考えています。

「新潟水俣病被害者のお話し」、「展示の案内・説明」、「水の実験」などのプログラムを用意し、学習や研修・講座の目的、滞在時間に合わせたプランを提供します。

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一般社団法人あがのがわ環境学舎水俣病

一般社団法人あがのがわ環境学舎

新潟水俣病の概要

◆阿賀野川を襲った高度経済成長の影

環境学舎1
昭和40年に新潟県阿賀野川沿岸での発生が公表された新潟水俣病。阿賀野川上流域の旧鹿瀬町(現阿賀町)で操業していた昭和電工㈱鹿瀬工場が、阿賀野川に流した排水中の有機水銀が原因となって引き起こされた公害でした。

当初肥料を製造していた鹿瀬工場は昭和30年代に入ると有機化学分野に傾斜し、高度経済成長期の日本社会が必要とした合成樹脂や酢酸の原料となる「アセトアルデヒド」の製造に注力します。その製造過程で使用された触媒から副生される有機水銀が排水溝から阿賀野川に流れ出た後、食物連鎖を通じて生物濃縮され、最終的に川魚を日常的に喫食していた沿岸住民に高濃度で蓄積されていきました。

◆失われた「人と人の絆」「人と自然の関係」

環境学舎2

こうして当時、日々の労働や食生活など阿賀野川と共に生きてきた沿岸住民ほど深刻な健康被害を受け、手足の先のしびれなど四肢の感覚障害を主とした症状に苦しむ人々は今なお大勢います。

さらに、かつては周囲の偏見・中傷もひどく地域の絆が損なわれた上に、阿賀野川の自然の恵みが汚されたことで、人々が川から遠ざかる一因にもなりました。公害の記憶が思い出されるため、現在でも「阿賀野川ブランド」という言葉の使用をためらう人も少なくありません。

四大公害の中では最初に裁判が提起されましたが、現在に至るまで訴訟は繰り返され、新潟水俣病問題は阿賀野川流域で今なお継続しています。

この団体だからこそ学べる特徴

環境学舎3

  • 新潟水俣病問題が今も続く阿賀野川流域の地域再生を目指す団体で、これまで「阿賀野川流域地域フィールドミュージアム事業」の企画運営などを担ってきました。
  • 公害関連含む阿賀野川流域の膨大な史料を基に制作したパネル・映像作品などを通じて、公害問題を含む流域全体の歴史・文化を俯瞰的に理解できます。
  • なぜ新潟水俣病が発生してしまったのか、その発生経緯を社会背景や企業側視点も含めて学べる公害学習プログラム(有料)なども提供しています。
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一般財団法人水俣病センター相思社 水俣病歴史考証館水俣病

一般財団法人水俣病センター相思社 水俣病歴史考証館

熊本水俣病の概要

水俣病は、日本の化学工業会社のチッソの熊本県水俣市にある工場が不知火海に流した、メチル水銀が含まれた廃液により、魚介類が汚染され、それを食べた地域住民が健康を冒された公害事件です。1956年(昭和31年)に公式に発生が確認されました。日本の高度経済成長期に発生した四大公害病の一つであり、「公害の原点」ともいわれています。

メチル水銀の廃液は1932(昭和7)年から1968(昭和43)年まで、36年の長きに渡り流され続けました。とくに原因が工場廃液にあると確認された1959(昭和34)年以降も措置がとられず、水俣市周辺だけでなく不知火海沿岸地域(山間部を含む)にわたってたくさんの患者が発生しました。メチル水銀は、脳などの中枢神経を破壊するだけでなく、内臓にも影響します。濃厚汚染により、短期間に死亡した例や母親の胎内で被害を受けた胎児性水俣病、長期に汚染を受けた慢性水俣病もあります。これまでに熊本県と鹿児島県とでおよそ8万人以上の方が症状を訴えています。

この資料館だからこそ学べる特徴

猫実験の小屋

ネコの実証実験をした小屋や、患者運動の中で生まれた「怨」の文字が抜かれた黒旗、水俣湾に堆積した水銀ヘドロの一部、水俣湾に張られていた仕切り網、石牟礼道子氏の「苦海浄土」生原稿などの実物の展示が多いことで、感性が刺激され、被害者の側から公害事件が語られているので、行政の運営する資料館では得られない知見があります。また、職員の展示解説中の意見交換も目玉です。

 

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全国公害被害者総行動実行委員会患者団体

全国公害被害者総行動実行委員会

団体の概要

全国公害被害者総行動は「公害の根絶と平和を求めて」を合言葉に1976年以来、全国の公害被害者によって取り組まれてきました。イタイイタイ病、水俣病、大気汚染公害、薬害などで多くの成果を勝ち取り公害行政の前進に少なからず貢献してきました。今日、公害は終わるどころか、2011年の「東京電力福島原発事故」による放射能汚染による被害をはじめ、土壌・大気・水質の汚染、薬害や基地騒音の増大、アスベストによる健康被害のさらなる深刻化等々健康や環境の破壊が進行しています。
私たちは下記のことを求めて運動を進めています。

一)建設アスベスト訴訟は20年12月最高裁が1人親方を含む国の責任を確定させました。アスベストの被害はますます広がっており、国と建材メーカーの責任による補償基金制度創設は急務です。
PM2.5などの大気汚染は依然続いており、水俣病、カネミ油症の被害は今も続き、公害や環境破壊は、新たな様相をもって私たちの前に立ち現われています。

二)福島原発事故は、多くの人々に甚大な被害を与えました。しかし国と電力会社は原発を再稼働させ、石炭火力発電所とともに主要電源と位置づけています。原発訴訟は2021年1月末までに地裁・高裁の24判決全てで国・東電の損害賠償基準を超える損害を認定しています。また、24判決のうち国を被告にした16判決(地裁14、高裁2)では、8判決(地裁7、高裁1)が国の責任を断罪しています。新型コロナウィルスの世界的大流行(パンデミック)も人間による自然環境の破壊が要因となっています。

三)地球温暖化は環境を激変させ、人類の生存をも脅かすものとなっています。菅内閣は2050年までに温室効果ガス排出を実質ゼロにすると公約しました。その実現は「2030年までの10年」にかかっています。「パリ協定」の実行は待ったなしです。再生可能エネルギー100%に大転換するときです。戦争は最大の「環境破壊」であり、公害の根絶と平和を希求する公害被害者は、「なくせ公害・守ろう地球環境」の実現のために、国のいっそうの努力を求めます。

全国公害被害者総行動実行委員会参加団体

2021年3月8日現在
・イタイイタイ病対策協議会・(一財)神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会
・安中緑の大地を守る会
・水俣病被害者の会全国連絡会
 ・水俣病被害者の会
 ・新潟水俣病被害者の会
・ノーモア・ミナマタ被害者・弁護団全国連絡会議
 ・水俣病不知火患者会
 ・新潟水俣病阿賀野患者会
・東京公害患者と家族の会
・川崎公害病患者と家族の会
・横浜市公害患者と家族の会
・南区公害病患者と家族の会
・四日市公害患者と家族の会
・大阪公害患者の会連合会
・神戸公害患者と家族の会
・倉敷公害患者と家族の会
・北九州市公害患者と家族の会
・千葉あおぞら連絡会
・泉南アスベストの会(旧泉南アスベスト国賠訴訟原告団)
・首都圏建設アスベスト訴訟統一本部
・大阪建設アスベスト訴訟原告団
・京都建設アスベスト訴訟原告団
・九州建設アスベスト訴訟原告団・弁護団
・瀬戸内の環境を守る連絡会
・よみがえれ!有明訴訟原告・弁護団
・川辺川利水訴訟原告団
・全国水害被災者連絡会
・道路住民運動全国連絡会
・スモンの会全国連絡協議会
・薬害ヤコブ病被害者・弁護団全国連絡会議
・薬害イレッサ訴訟原告団・弁護団
・第2次新横田基地公害訴訟原告団・弁護団
・第三次嘉手納基地爆音差止訴訟原告団
・名古屋新幹線公害訴訟団
・カネミ油症被害者全国連絡会
・「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟原告団・弁護団
・原発事故の完全賠償をさせる会
・元の生活をかえせ・原発事故被害いわき市民訴訟原告団・弁護団
・ふるさとを返せ・福島原発避難者訴訟原告団・弁護団
・福島原発事故津島被害者原告団・弁護団
・福島原発被害東京訴訟原告団
・原発賠償関西訴訟原告団・弁護団
・だまっちゃおれん原発事故人権侵害訴訟・愛知岐阜原告団
・福島原発かながわ訴訟原告団
・化学兵器被害解決ネットワーク
・公害・地球環境問題懇談会
・全国公害弁護団連絡会議

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清流会館・(一財)神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会・イタイイタイ病対策協議会イタイイタイ病

清流会館・(一財)神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会・イタイイタイ病対策協議会

イタイイタイ病の概要

厚生省は明治44年(1911年)最初のイタイイタイ病患者が発生したと推定

  1. 神通川流域の富山県婦負郡及びその周辺地域に於いて発生
  2. 原因物質はカドミウム
  3. カドミウムの慢性中毒により、腎臓障害を生じ、次いで骨軟化症をきたす
  4. 神通川上流の三井金属鉱業(株)神岡鉱業所(現神岡鉱業(株))の事業活動に伴って排出されたカドミウムによるもの

(1~4は昭和43年(1968年)5月8日厚生省見解発表の抜粋)

・汚染された神通川の水を生活水として使い、その水で育った稲、その米を食することにより骨がもろくなり、軽度な日常生活において骨折するもので、72ヶ所の骨折をされた人、背が30㎝も小さくなった人も。

・カドミウムが原因と判明するまで原因不明の地方病・業病・祟りと言われ、差別され、家族・家庭の崩壊もあった。

・発生から救済までに半世紀以上の長い時間がかかったのは、患者の多くが女性であったことが一因と考えられる。

・公式発表の患者数は今年7月12日で200名に。その内訳は、男性5名、女性195名(生存者:男性2名、女性3名)

この資料館だからこそ学べる特徴

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①患者救済と汚染田復元、更に発生源対策の原点は昭和43年(1968年)3月イタイイタイ病裁判を提訴したこと。

②汚染された農地を復元し、元に戻す事業は407億円を投じ33年間の歳月を要し平成23年完了した。復元後の整備工事は平成33年を目標に進行している。

③神通川に清流を戻すべく発生源対策は44年目となる。協力科学者グループの叡智によりカドミウムについてはほぼ自然界値に戻り、今後再汚染させない活動を原因企業と共に進行している。その過程での緊張感ある信頼関係は企業自ら環境安全最優先を掲げての企業の倫理と責務としている。

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北九州市環境ミュージアム大気汚染

北九州市環境ミュージアム

北九州大気汚染公害と施設の概要

北九州地域は、日本の四大工業地帯の一つとして、重化学工業を中心に発展し、日本の近代化・高度経済成長の牽引役を果たしてきました。しかし、産業の繁栄 は、一方で激しい公害をもたらしました。1960年代、「ばい煙の空」と呼ばれた北九州地域の大気汚染は国内最悪を記録、洞海湾は工場廃水により「死の海」と化しました。
この公害に対し、対策を求めて最初に立ち上がったのは、子どもの健康を心配した母親たちでした。住民運動やマスメディアの報道が公害に対する社会の問題意識を高め、企業や行政の公害対策強化を促したのです。
市民、企業、行政の一体となった取り組みにより、環境は急速に改善され、1980年代には、環境再生を果たした奇跡のまちとして国内外に紹介されるようになりました。平成23年にはOECDからグリーン成長都市に、平成29年にはSDGs推進に向けた世界のモデル都市の1つとしてアジアで初めて選定されるなど、現在も環境と持続可能な社会への取り組みを積極的に行っています。

この資料館だからこそ学べる特徴

・北九州市の公害克服の歴史を体系的に学べる施設はほかにはありません。公害克服から現在に至るまで順を追ってご覧になれます。

・北九州市における環境学習拠点として、年齢を問わずニーズに合わせた環境学習プログラムが体験できます。

・環境をテーマにした様々なイベントが実施されており、日頃難しく考えがちな環境を楽しく・わかりやすく体験できます。

・北九州市環境ミュージアム展示 ―プロローグ―

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環境未来都市として、魅力ある街づくりを目指す北九州市の豊かな自然と、これまで北九州市がたどってきた歴史を紹介するゾーン。さらに、地球や環境問題に関する貴重なメッセージを見ることができる

・北九州市環境ミュージアム展示 ―第1ゾーン 北九州市の変遷―

北九州の移り変わりを紹介するゾーン。1901年の官営八幡製鐵所の創業を始まりとして、日本における近代産業発祥の地である北九州の1世紀に渡る歴史を写真とシンボル展示で見る。

・北九州市環境ミュージアム展示 ―第2ゾーン 公害克服の歴史―

第2ゾーン

不可能と思われた北九州市の公害克服の歴史を紹介するゾーン。ものづくりの街としての発展、それゆえに直面することになった公害問題。市民・企業・大学・行政の協動により、公害をどのように克服したのか。協働により豊かな自然環境を取り戻すまでの歩みを市民の目線から見る。また、北九州市の国際協力について分かりやすく展示。

・北九州市環境ミュージアム展示 ―第3ゾーン 地球環境と私たち―

第3ゾーン

地球環境問題を身近な暮らしの中やグローバルな経済活動などの視点から伝えるゾーン。

地球のしくみや地球環境の現状を触ったり動かしたりする展示を通じて楽しみながら学び、自分自身と地球環境問題の関係を体験や体感の中から発見する。

・北九州市環境ミュージアム展示 ―第4ゾーン 環境技術とエコライフ―

第4ゾーン

「リサイクル」を通じて、身近なエコ商品やエコ素材を紹介するゾーン。資源・エネルギー・廃棄物・環境新技術など、物を捨てない「循環型都市」へ向けてのヒントを知ることができる。また、SDGs(持続可能な開発目標)についてわかりやすく解説している。

・北九州市環境ミュージアム展示 ―第5ゾーン SDGs未来都市 北九州市―

「北九州市が行っている環境に関する取組」や「市民・団体・企業・学校の環境活動」「新エネルギー」などについて紹介している。

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国立水俣病総合研究センター 水俣病情報センター水俣病

国立水俣病総合研究センター 水俣病情報センター

水俣病の概要

水俣病は、化学工場から海や河川に排出されたメチル水銀化合物を、魚、エビ、カニ、貝などの魚介類が直接エラや消化管から吸収して、 あるいは食物連鎖を通じて体内に高濃度に蓄積し、これを日常的にたくさん食べた住民の間に発生した中毒性の神経疾患です。
熊本県水俣湾周辺を中心とする八代海沿岸で発生し、始めは原因の分からない神経疾患としてあつかわれていました。その後新潟県阿賀野川流域においても発生が確認されました。
水俣湾周辺の水俣病については、昭和31年(1956)5月、初めて患者の発生が報告され、その年の末には、52人の患者が確認されました。 この疾患は昭和32年(1957)以降「水俣病」と呼ばれるようになりました。
阿賀野川流域の水俣病については、昭和40年(1965)5月に患者発生が報告され、その年の7月には26人の患者とそのうち5名の死亡が確認されました。 水俣病患者の認定は、公害健康被害の補償等に関する法律に基づき関係各県の知事および国によって行われます。

この資料館だからこそ学べる特徴

国立水俣病総合研究センターを母体としているため「水銀研究」、「世界の水深汚染問題」について充実した展示を行っています。

また水俣病発症のメカニズム、水俣病の原因究明、原因究明に至るまでの様々な研究などの紹介にも力を入れています。

隣接する水俣病資料館、熊本県環境センターと3館で連携し、一帯を「まなびの丘」として、公害・環境学習における各種協力の取り組みを行っています。

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立教大学 共生社会研究センター公害一般

立教大学 共生社会研究センター

公害と施設の概要

立教共生研3

立教大学共生社会研究センターでは、1960年代以降、日本・海外で展開したさまざまな市民活動のさまざまな記録を保存・整理・公開しています。公害資料館ネットワーク参加館の所蔵資料と共通した特徴を持つものとしては、千葉川鉄公害裁判の記録があります。

千葉市沿岸部は、現在では幕張新都心が整備され、幕張メッセや球場、商業施設などが有名ですが、かつては遠浅の海岸を利用した漁業が盛んで、風光明媚な避暑地としても知られた地域でした。

第二次大戦後、千葉市を含む千葉県の東京湾沿岸部は次々と埋め立てられ、京葉工業地帯の造成が進められました。1950年に千葉市が川崎製鉄を誘致したことで、他の市町村にも企業が進出し、千葉県はめざましい発展を遂げることになります。川崎製鉄が進出した千葉市においては、1960年から1970年の製造業従事者の割合が最も高くなりました。

しかし、急速な工業化は弊害をもたらします。川崎製鉄の周辺(現在の千葉市中央区の沿岸部)に住む住民に健康被害が見られながらも、1975年に当時の千葉市長は六号高炉建設を許可しました。これが端緒となり、健康被害の訴えとともに「あおぞら裁判」がはじまりました。原告は、差止め原告125名(一審判決時)と60名の患者原告らで構成されており、患者原告らは喘息や気管支炎などに苦しめられていました。その様子は、証言や記録から切々と伝わってきます。原告団長自身も症状に見舞われながらも、大気汚染簡易測定法をもちいた測定を地元高校生と共におこなったり、汚染の様子をあらゆる方法で記録したりと奔走していたことが資料からうかがえます。

裁判は1988年に原告の勝訴となりましたが、控訴審に持ち込まれ、1992年に双方の和解というかたちで幕を閉じました。

この資料館だからこそ学べる特徴について

・大気汚染公害とその裁判だけではなく、国内外の様々な公害・環境問題に対する市民の活動が生み出した資料を幅広く所蔵しています。

・資料に関するどんなご相談にも応じますので、お気軽にお問い合わせください。他館への紹介も可能です。

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法政大学 大原社会問題研究所 環境アーカイブズ公害一般

法政大学 大原社会問題研究所 環境アーカイブズ

施設の概要

環境分野の多くの資料は、個人の研究者・環境運動の参加者、住民運動団体等に所蔵されています。それらは環境問題にかかわる歴史的経験の貴重な記録であり、その保存は積極的な社会的意義があります。しかし今日、研究者や活動家の引退、住民運動団体等の解散にともない、貴重な環境問題・政策・運動に関する資(史)料が処分、あるいは散逸する恐れが生じています。環境アーカイブズは、そのような散逸の危機にある資料の整理や保存を通じて、環境問題に関する歴史的記憶の共有を目指しています。

これまでに環境アーカイブズに寄贈された資料は約850箱で、2011年12月から順次公開を開始しました。所蔵する資料は、大きく分けると①薬害関係、②環境保護・開発反対関係、③反原発運動関係、④市民活動一般に関するものになります。運動団体の一次資料、研究者が収集した映像資料など、多様な形態の記録をあつかっています。ビラや集会ポスターなどの被害者団体が作成した文書記録、地域密着型のミニコミ、日本や世界の祭りを映した映像や自然保護活動のスライドなどを公開しています。とくに映像資料は、保存と利用のためにデジタル媒体の用意もあり、視聴可能な70本程度の映像資料は学術研究目的で利用に供しています。

この資料館だからこそ学べる特徴

・環境問題や市民活動等、環境アーカイブズが所蔵する資料は多岐にわたっており、加えて一次資料、図書、映像といった様々な媒体の資料を保存していますので、調べたいテーマについて、多様な側面からの分析ができます。

・大学に所属する組織なので、学部等での授業利用を積極的に推進しています。環境問題等に関する原資料の活用は、より臨場感をもって、学生にそのテーマを伝えることができるはずです。環境アーカイブズはその手助けをしたいと考えています。

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尼崎市立歴史博物館地域研究史料室“あまがさきアーカイブズ”大気汚染

尼崎市立歴史博物館地域研究史料室“あまがさきアーカイブズ”

尼崎大気汚染公害と施設の概要

1昭和29年村井邦夫氏撮影写真

近代以降、尼崎市は阪神工業地帯の一翼を担う工業都市として発展しましたが、第二次世界大戦以前より、地盤沈下・水質汚濁・大気汚染等の公害が起こり始めていました。

戦後から高度経済成長期にかけて尼崎市では再び公害被害が深刻化します。臨海部の発電所や重化学工業系の工場群より出る煤煙、国道43号・阪神高速などの自動車からの排気ガスによる大気汚染は、尼崎市南部の住民に深刻な健康被害を及ぼしました。

それに対し、尼崎市は様々な調査や条例の制定、企業への指導といった対策を講じていきます。一方で、公害被害に悩む住民も立ち上がり、昭和46年(1971)には尼崎公害患者・家族の会と43号線公害対策尼崎連合会を結成しました。もっとも高度経済成長期において改善は難しく、市域の認定患者数は昭和50年代を通して5,000人以上という高い水準を保っていました。

石油危機以降の経済停滞のなか、国は公害健康被害補償制度見直しを進めます。このような動きを受け、阪神地域の認定患者・遺族らは国道43号線道路公害訴訟と尼崎大気汚染公害訴訟という二つの代表的な大規模公害訴訟を起こしました。

近年、自然・環境に関する市民的関心は高まっており、市域臨海部工場跡地・運河などをフィールドとしつつ、兵庫県・尼崎市と市民グループが協働し、新たなまちづくりに取り組んでいます。その一方で、平成17年(2005)に顕在化したアスベスト問題など、深刻な健康被害をもたらす新たな公害問題も起こっています。

この資料館だからこそ学べる特徴

アーカイブズ機関である特性を活かし、多様な所蔵資料を閲覧・公開しています。一例を挙げると、尼崎市の歴史的公文書、民間資料(裁判資料・反対運動)、図書、行政刊行物、写真・映像資料など。このため、自分が関心を持っているテーマについて様々な角度から調査・検証を行うことができます。

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みずしま資料交流館(あさがおギャラリー)大気汚染

みずしま資料交流館(あさがおギャラリー)

倉敷大気汚染公害と施設の概要

みずしま財団1

岡山県倉敷市南部にある水島は、江戸時代の干拓と大正時代の東高梁川の改修により形成された地域で、広大な干潟と漁場に恵まれた農漁村でした。第二次世界大戦中に三菱重工業の航空機製作所が建設されたことが工業化の始まりでした。

1952年、岡山県は水島臨海工業地帯の造成計画を策定し、開発に着手、遠浅の水島灘を大規模に埋め立て建設された水島コンビナートは1961年に本格操業を開始しました。石油化学工場・製鉄所などで構成される工場の周辺地域では、汚染物質を含んだ煙により創業当初から悪臭や農作物の被害、ぜん息等の健康被害が発生しました。1975年に公害健康被害補償法による指定地域となり、3,800人以上が公害病と認定されました。

1983年11月9日、公害病認定患者は公害をなくし青い空を取り戻すため、水島コンビナートの企業8社を提訴、1次~3次訴訟を合わせて292人(提訴時)が倉敷公害裁判の原告となりました。
1994年3月23日の原告勝訴の判決では、工場が排出した大気汚染物質を病気の原因であるとし、原告全員が公害による病気と認められましたが、工場周辺の環境は昭和30~40年代と比較すると改善されているとし、大気汚染物質の差し止めはできませんでした。
その後、1996年12月26日に企業と原告は和解し、「解決金の一部を原告らの環境保健、地域の生活環境の改善などの実現に使用できる」との和解条項を基に、2000年3月にみずしま財団が設立され、環境再生・環境学習の推進を行っています。

この資料館だからこそ学べる特徴

  • 倉敷市環境学習センターを起点に、水島コンビナートの工場見学と公害・環境学習をもりこんだフィールドワークができます。瀬戸内海での漁業体験や商店街のまち歩き等を組み合わせることも可能です。
  • 企業、行政、住民のそれぞれの立場で公害に立ち向かった人々の努力を学ぶことができます。公害患者さんから直接お話を聞くことができます。
  • 病院と連携し、医療従事者や医学生向けの研修をおこなっています。
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四日市公害と環境未来館大気汚染

四日市公害と環境未来館

四日市大気汚染公害と施設の概要

四日市公害と環境未来館1

昭和30年頃当時の日本は戦後復興から高度経済成長期に入りました。経済優先の社会背景のもと、本市を含む全国各地で大規模な工場が次々と建設され、工場周辺では様々な公害が発生しました。

本市でも、市内沿岸部に石油化学コンビナートが操業を開始し、工業都市として発展していく中で、大気汚染によって工場周辺の多くの方がぜん息に罹患するなど健康被害が拡大し、「四日市公害」と呼ばれる深刻な公害問題が発生しました。

こうした状況を受けて、全国に先駆けて昭和40年に本市が実施した公害健康被害者に対する医療費救済制度、そして昭和42年に提起された四日市公害裁判などは、日本の公害問題の解決への道を開き、産業の発展と環境保全を両立させるきっかけとなりました。

当館は、それらの歴史と教訓を次世代に伝えるとともに、環境改善の取り組みや産業の発展と環境保全を両立したまちづくり、さらにはその経験から得た知識や環境技術を広く国内外に発信することを目的に開館しています。

この資料館だからこそ学べる特徴

当館では、四日市公害の発生に至る経緯や被害、環境改善に向けたさまざまな取り組みについて、子どもから大人までを対象に、映像や写真、絵本などを用いてわかりやすく展示しております。また併設している四日市市立博物館の常設展示やプラネタリウムと一緒に見ていただくことで、私たちの生活と環境との結びつきを理解したり、地球規模で環境を考えたりすることができる施設となっております。