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子どもと原子力災害 保養資料室《ほよよん》原子力公害

子どもと原子力災害 保養資料室《ほよよん》

東京電力福島第一原子力発電事故と保養

2011年3月11日に発生した東日本大震災により、福島第一原発1号機、2号機、3号機が緊急停止後、外部からの電源供給が途絶え、非常用発電機も津波に襲われて全所停電。原子炉の炉心の温度は2800度に達して核燃料が溶け出し始め、同日19時3分、内閣総理大臣が原子力緊急事態宣言を発出しました。
翌12日には1号機が、14日には3号機がメルトダウンして水素爆発により建屋が吹き飛びました。15日には2号機もメルトダウン、大量の放射性物質が外部に放出されました。
大気中に放出された放射性物質の約84%は偏西風にのり太平洋側に流れましたが、残りの16%は東日本の各地に降下。法律で立ち入りが厳しく規制される「放射線管理区域」の基準(1㎡当たりの放射能量4万ベクレル)を超える地域が、福島県の浜通り、中通りを中心に、栃木県、群馬県、宮城県、茨木県、千葉県、岩手県、新潟県、東京都の一部まで広がってしまいました。

事故から十数年たった現在も、廃炉の進まない福島第一原発では、一日当たり数千人の作業員が、被曝を前提とした過酷な業務に従事しています。この原子力災害はいまも終わっていません。

「保養」は、高い放射線量の中で暮らさざるをえなくなった人々を一定期間受け入れ、心身を癒してもらう活動として、2011年の事故発生後、全国各地で広がりました。
以来、北海道から沖縄まで、そして海外でも、民間団体による受け入れが続けられ、新型コロナウイルスのパンデミックを経た現在も、多くの子どもたちや家族が保養に参加しています。

保養キャンプのようす

この資料館だからこそ学べる特徴

「保養」の多くは、春休みや夏休みなど参加しやすい時期を中心に、原発事故の影響を受けた地域の子どもや家族に滞在してもらい、心身を癒すプログラムや交流活動などをおこなうものです。
公的な支援がほとんどない中、市民が自発的に立ち上がり、発災から十数年にわたって継続されている「保養」は、日本の市民活動の中でも特筆すべきものです。

この資料室は、日本各地の保養団体の資料を、時系列的かつ包括的に収集しています。保養に関する一次資料(参加者募集チラシ、ボランティア向け文書、活動報告書など)や、保養に関連する諸資料から、保養とはなにか、誰がどんな経緯で主催し、参加者がどのような思いで出かけて行ったのかを、ぜひ知ってください。

原子力災害は、社会の隅々まで複雑で多岐にわたる影響を与え続けます。私たちは企画展などを通して、この資料室が未来に向けて生きた相互交流ができる「場」となることを目指しています。

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太田市足尾鉱毒展示資料室鉱毒

太田市足尾鉱毒展示資料室

<見学ご希望のかたへ>
臨時休室等の最新情報を以下からご確認の上、お出かけ下さい。
太田市WEBサイト〔https://www.city.ota.gunma.jp/page/1495.html〕

足尾銅山からの公害の概要

栃木県にある足尾銅山からの公害の影響は、足尾町(現・栃木県日光市)周辺だけでなく、渡良瀬川の流域である栃木・群馬・埼玉・茨城など広範囲に及び、その長い経過から「百年公害」とも呼ばれました。2015年5月27日に開室した太田市足尾鉱毒展示資料室は、鉱毒(水質汚染・土壌汚染)による農作物被害とたたかった群馬県毛里田村(現・太田市)の人びとの足跡を伝える資料室です。

この資料室だからこそ学べる特徴

明治期から続く足尾鉱毒根絶運動の歴史の中で、渡良瀬川鉱毒根絶太田期成同盟会の果たした役割は、はじめて原因企業に加害責任を認めさせた後世に語り継ぐべき歴史的成果です。この歴史を次世代に引き継ぎ、将来にわたっての公害根絶を祈念して、その運動を紹介する資料を展示しています。 

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「技術と社会」資料館公害一般

「技術と社会」資料館

資料館の概要

1.水俣病事件重要資料4500点
2.公害関係図書2300冊
3.原発関係図書3000冊・福島原発関係雑誌約1500冊
4.化学工業図書1100冊
5.新左翼・全共闘関係資料3300点

現代日本の技術と社会関係図書・資料を収集・公開。蔵書約2万5千冊。団体著作物中心。開架。主として研究者・マスコミ・教育者向けに広く情報サービスを提供。

 

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原子力災害考証館furusato原子力公害

原子力災害考証館furusato

2011年3月11日の東日本大震災に伴う東京電力福島第一原発事故により、先祖代々守り続けてきた土地、豊かな海、文化、それらへのささやかな信頼と誇り等、様々なものが失われました。

何が被害を深刻化させたのか。私たちは何を失い、何に気づき、何を取り戻さねばならないのか。命の営みにとって本当に大切なものは何か。それを二度と失わないようにするために、どのような社会にしていけばよいのか。そうした一つひとつの問いに、向き合える場所として、いわき湯本の旅館『古滝屋』の9階の一室に、「原子力災害」を「考証」する展示ルームを設けることにいたしました。

構想のヒントになったのは日本四大公害水俣病の民間のアーカイブ施設である「水俣病歴史考証館」や、成田闘争のアーカイブ施設である「空と大地の歴史館」です。どちらも、「賛成/反対」という立場を超えて学び考える事のできる貴重な施設です。
未曽有の被害をもたらした原子力災害についても、被害の全容と構造的背景、被害の克服に向けた様々な取組を記録する施設が必要だと考えました。本災害の特徴としては、かつて原子力事業者と住民が共に町づくりを担う仲間だった地域であり、避難者が未だ多くいらっしゃることに留まらず、放射能の健康影響が科学的に未解明のため、被害の実態すら見解が異なる等の深刻な事態があります。だからこそ、様々な立場や考え方の違いに由来する分断を乗り越え、ふるさとを守るために何ができるかという問いに向き合い続ける必要があるのです。

現在考証館では、津波で失ったご家族、避難指示解除後の町並みの変容、裁判、中間貯蔵問題、母子避難、対話の場づくり等、様々なテーマについて、草の根の人びとが取り組んできた軌跡を展示しております。別室には、「子どもと原子力災害 保養資料室《ほよよん》」が開設され、全国各地で開催されている「保養」がどのようなものなのか、知ることができます。
他に、年に1回程度の意見交換会やスタディツアーを開催し、ネットワークを広げています。

一人ひとりが、問いに向き合い、答えを見出していく。そして、これからどんな生き方や社会を目指していくのかを考え、行動する。「原子力災害考証館」を、そんな場にして行きたいと考えています。

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豊島(てしま)のこころ資料館廃棄物

豊島(てしま)のこころ資料館

公害の概要

香川県豊島(てしま)は、小豆島西約3.7kmに位置する周囲約20kmの離島です。
島西端の瀬戸内海国立公園内で土砂採取をしていた業者が、1975年に有害産業廃棄物処理の許可申請をしました。住民は反対運動や裁判を起こしましたが、知事がみみず養殖のための無害物の扱いを許可し、業者は操業後すぐ無許可の産業廃棄物持ち込みを始めました。その結果、1970年代後半から1990年にかけて日本最大規模の有害産業廃棄物が不法投棄されました。
持ち込まれた産業廃棄物は、自動車廃プラスチック類のシュレッダーダスト等でした。不法投棄が大規模化した1980年代には連日、野焼きの黒煙が立ち上り、住民は咳が止まらない健康被害が発生しました。喘息様の症状を持つ生徒・児童は、全国平均10倍近くになりました。
1990年11月、兵庫県警の強制捜査により廃棄物搬入は止まりましたが、膨大な量の廃棄物が放置され、有害物質を含む水が海に流出しました。また事件報道による風評被害で豊島産の産物、観光業が壊滅的影響を受けました。
豊島住民は廃棄物撤去のため1993年11月に香川県と業者、排出事業者等を相手取った公害調停を国に申請し、世論の理解と支援を得るため住民運動を展開しました。
2000年6月に知事が謝罪し、調停成立。廃棄物と汚染土壌の搬出、直島での中間処理が2017年まで実施され、2021年4月現在、汚染された地下水の浄化作業中です。

廃棄物撤去後、地下水浄化中の不法投棄現場 2021年4月

この資料館だからこそ学べる特徴

「豊島(てしま)のこころ資料館」は、豊島が「ごみの島」でなく「学びの島」として再生し、大量生産・大量消費・大量廃棄時代を象徴する有害産業廃棄物不法投棄事件の経緯と教訓を後世に伝えるため、住民手作りの資料館として2002年に開館しました。建物は不法投棄を起こした業者の元事務所で、現場内にあり、住民による現場見学の際に訪問します。
歴史の証人としての不法投棄された産業廃棄物の剥ぎ取り標本をはじめ、住民運動の資料や年表、写真パネル等の展示があります。

豊島のこころ資料館(2002年〜) 2021年4月
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アトリエ泉南石綿の館アスベスト

アトリエ泉南石綿の館

石綿の危険性を訴えた梶本医師

石綿紡織産業の最盛期、変人奇人扱いされながら石綿の危険性を訴え続けた梶本政治医師(1913~94)。
彼の業績を集めた『アトリエ泉南石綿の館』が、2019年4月泉南市信達牧野の旧医院跡地に開設。

梶本医師は大阪帝国大(現大阪大)医学部を卒業後、第二次世界大戦で軍医として戦地に赴いた。 戦後は大阪大で研究、53年に内科医として地元に医院を開設。 同時に「石綿肺研究会」の看板を掲げ行政、企業、個人に石綿被害の警告を文書で発信した。

館には梶本医師の聴診器や顕微鏡等の遺品と共に、住民運動や訴訟の記録等が展示され石綿被害根絶を発信する拠点となっている。

※アトリエ石綿の館とともに1件空いた隣地にモニュメントとして泉南石綿の碑(2016年)を先に建立し、来館者の方には2か所を案内、説明させていただいています

 

石綿(アスベスト)とは

石綿(アスベスト)は自然鉱石で、不燃・非腐食の性質を備えている。
不燃材保温材として多く使われた。戦前は戦艦など軍需向けが主。
戦後は船・自動車・鉄鋼等に耐熱耐摩耗資材を供給、高度成長期の日本経済を下支えした。
その一方石綿は、人体吸入からおおむね40年の潜伏期をへて、石綿肺、石綿肺癌、中皮腫といった重大な健康障害を引き起こした。

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NPO法人 足尾鉱毒事件田中正造記念館鉱毒

NPO法人 足尾鉱毒事件田中正造記念館

公害の概要

足尾銅山は栃木県西部、渡良瀬川の最上流部に位置する日光市足尾町にあります。この足尾銅山による「足尾鉱毒事件」は、明治中期以降に発生した日本最初の公害問題となった。銅採掘技術の近代化および大規模化を図り、やがて日本の産銅量の40%を算出する日本一の大銅山となった。しかし足尾銅山の銅採掘は、足尾鉱毒事件と呼ばれる大きな公害問題を引き起こした。
昔の渡良瀬川は水がきれいで、地域によっては薬水と呼ばれるほど清流であった。そこには豊富な魚類が生息すると同時に、農作物の収量が多く流域は豊かな自然の恩恵を受けていた。このような自然環境に恵まれていた渡良瀬川流域住民を苦しめる鉱毒事件となった。
公害問題の第一は、銅精錬、その他工場稼働に必要な燃料として足尾の山の乱伐が行れると共に、製錬所から毎日排出される煙に含まれている亜硫酸ガスにより林野の枯死ではげ山となってしまった。この結果、渡良瀬川の水源地である足尾の山々は保水能力が失われ下流域の大洪水の原因となると同時に洪水のたびに鉱毒被害が拡大した。
第二は黄銅鉱を採掘した坑道から湧き出る硫酸銅等を含む有毒な地下水が渡良瀬川に放出されたことです。また選鉱、精錬過程で生じる大量の廃石等が渡良瀬川に投棄されたことにより、渡良瀬川の水や土には、硫酸、鉛、亜鉛、砒素、銅、カドミウム等が含有され、鉱毒となり、そこに生息していた魚類が絶滅し農耕地を荒廃させてしまった。これに抗議する農民らが損害賠償や足尾銅山の鉱業停止を要求する大衆運動を起こした足尾鉱毒事件となったものです。

この記念館だからこそ学べる特徴

当館の最も大きな目的であり使命は、鉱毒事件の概要や田中正造・鉱毒被害民の闘いの歴史等を伝え理解していただき、広く普及させていくことです。足尾鉱毒事件の被害民を救済するために奔走した政治家、田中正造に関する資料や写真、パネル等が展示されており、係員がわかりやすく説明します。係員は全員がボランティアで小中学生にもわかるような解説で誰もが学べる「学び舎」を目指しています。

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熊本学園大学 水俣学現地研究センター水俣病

熊本学園大学 水俣学現地研究センター

水俣病の概要

水俣病はチッソ水俣工場排水に含まれていた有機水銀による公害である。工場排水が環境汚染するだけでなく、食物連鎖によって魚介類によって濃縮され、それを食べた猫や人に被害が発生した。世界でも類のない環境経由による公害である。1956年5月に人への被害が公式確認された。水銀汚染は不知火海全域に拡散、行商等を通じ山間部でも、汚染魚を食べた人たちに、広範囲に水俣病被害が発生した。被害者は約20万人及ぶ。
 1973年一次訴訟判決で、原因企業チッソの補償責任が確定した。その後、2004年関西訴訟最高裁判決で熊本県、国の責任が認められたが、水俣病被害に関する補償、救済が十分に行われたとは言い難い。水俣病患者の認定制度で、補償された患者は約3000人。1995年の政治和解、2007年の水俣病救済に関する特措法による救済制度によって、約7万人が救済されたが、現在も被害を訴えて訴訟や認定請求を進めている被害者が多数存在する。今なお、被害が継続している公害事件である。

この資料館だからこそ学べる特徴

1960年代末に、「恥宣言」をし、水俣病患者の支援活動に取組んだ新日本窒素労働組合(水俣病原因企業チッソ(株)の企業内労働組合)の活動記録資料を労働組合の解散時に、寄贈を受け、整理、データベース化作業を進めている。資料目録は当センターホームページで公開している。また、資料画像や写真画像など順次ホームページに公開している。

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五島市カネミ油症被害資料展示コーナー食品公害

五島市カネミ油症被害資料展示コーナー

公害の概要

1968年(昭和43年)に福岡、長崎両県などで皮膚の吹き出物や体調不良を訴える人々が現れました。
最初の報道は10月10日。当時は原因不明で『奇病』とも言われました。

やがて、北九州市のカネミ倉庫が製造した食用米ぬか油が、鐘淵科学工業(現:カネカ)製PCBに汚染されていたことがわかりました。当時、PCBは製造が認められており、幅広い分野で使用されていました。カネミ倉庫もカネカからPCBを購入し、米ぬか油の脱臭工程で使用しました。この工程でPCBが混入したとされています。

人的被害が拡大する直前の1968年初め、カネミ倉庫製の『ダーク油』を使った飼料を食べた鶏が、大量死する事件が発生していました。油症事件の前触れとも言えました。(注:ダーク油とは、カネミ倉庫が油症の原因である食用米ぬか油を製造する過程ででる副産物。)

その後、農林省(当時)はカネミ倉庫への立入検査を行いましたが、同じ工程で製造された食用米ぬか油を詳しく調べないまま、『食用油は安全』と誤った判断をしました。さらに、食品衛生を担当する厚生省(当時)にも、事件について通報していませんでした。もしも通報していれば、食用油の安全性を確かめたり流通した油を回収したりすることで、人的被害が抑えられたはずでした。
当時その汚染油を摂取した被害者は健康被害や差別に苦しみました。汚染油を食べた被害者だけではなく、その子や孫にも影響が現れており、今もなお健康被害に苦しんでおります。

  

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宮崎大学 土呂久歴史民俗資料室ヒ素中毒

宮崎大学 土呂久歴史民俗資料室

土呂久と公害の概要

宮崎県高千穂町土呂久は、祖母・傾連山の標高400~800mの谷間の集落です。2024年10月現在の住民は61人で、40代以下は5人だけ、深刻な過疎・高齢化に苦悩しています。かつて鉱山が操業し、800人が住んでいた頃のにぎわいを思い描くのは困難です。
現在の自然豊かな美しい風景から、鉱山で猛毒の亜ヒ酸が製造されて、大気と水と土壌が汚染され、多数の労働者と住民が慢性ヒ素中毒症に苦しんだ過去を想像するのは容易ではありません。

(閉山から10年後、土呂久の人たちは有害な鉱物をふくむ廃石の山のそばで暮らしていました=1972年撮影)

土呂久で亜ヒ酸製造が始まったのは1920年。アメリカの綿花畑に散布する殺虫剤の原料として需要が増えたことが背景でした。33年から軍用機メーカー中島飛行機の系列鉱山がスズを主産物、亜ヒ酸を副産物として製造しました。戦争の時代に、亜ヒ酸は瀬戸内海の大久野島に運ばれて、陸軍の秘密工場で毒ガスの原料として使われました。
土呂久の住民は自治組織「和合会」に結集し、亜ヒ酸の製造をやめるよう抗議と陳情を繰り返し、41年には中止に追い込み、55年に亜ヒ酸製造が再開される時は「戦前の被害を繰り返すな」と反対しました。煙害問題を討議した記録は、和合会の議事録に残されています。
地元の小学校教師が埋もれていた公害を調査、71年の教育研究集会で報告し、社会問題として浮上しました。環境省は73年に慢性ヒ素中毒症を4番目の公害病に指定、2024年3月までに218人の患者が認定されています。最終鉱業権者の住友金属鉱山を相手に健康被害の償いを求めた土呂久訴訟は、1990年に最高裁で和解しました。


(亜ヒ焼き窯から100メートルのところに、一家7人が死滅した喜右衛門屋敷がありました)

この資料館だからこそ学べる特徴

土呂久の地質、自然、暮らし、山岳宗教、山間地農業の歴史、銀山時代の繁栄、亜ヒ酸製造がもたらした公害、健康被害と補償、環境破壊と復元、アジアで展開する国際協力、現在直面している過疎……。資料を手に取り、次のことを学ぶことができます。

1.自然と人間の共生の歴史
2.集落を運営する共同体の役割と機能
3.産業活動による環境破壊と健康被害 / 環境復元と被害補償
4.公害患者救済の経験を活かした国際協力
5.環境を保全しながら進める持続的な地域の発展、など

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熊本学園大学 水俣学研究センター水俣病

熊本学園大学 水俣学研究センター

水俣病の概要

水俣病はチッソ水俣工場排水に含まれていた有機水銀による公害である。工場排水が環境汚染するだけでなく、食物連鎖によって魚介類によって濃縮され、それを食べた猫や人に被害が発生した。世界でも類のない環境経由による公害である。1956年5月に人への被害が公式確認された。水銀汚染は不知火海全域に拡散、行商等を通じ山間部でも、汚染魚を食べた人たちに、広範囲に水俣病被害が発生した。被害者は約20万人及ぶ。
 1973年一次訴訟判決で、原因企業チッソの補償責任が確定した。その後、2004年関西訴訟最高裁判決で熊本県、国の責任が認められたが、水俣病被害に関する補償、救済が十分に行われたとは言い難い。水俣病患者の認定制度で、補償された患者は約3000人。1995年の政治和解、2007年の水俣病救済に関する特措法による救済制度によって、約7万人が救済されたが、現在も被害を訴えて訴訟や認定請求を進めている被害者が多数存在する。今なお、被害が継続している公害事件である。

この資料館だからこそ学べる特徴

1960年代末に、「恥宣言」をし、水俣病患者の支援活動に取組んだ新日本窒素労働組合(水俣病原因企業チッソ(株)の企業内労働組合)の活動記録資料を労働組合の解散時に、寄贈を受け、整理、データベース化作業を進めている。資料目録は当センターホームページで公開している。また、資料画像や写真画像など順次ホームページに公開している。

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熊本大学文書館水俣病

熊本大学文書館

熊本大学文書館

施設の概要

当館は熊本大学ならびに熊本地域に関する学術的研究資料の管理を行うことを目的として、2016年4月に設置されました。2023年4月1日付けで、「歴史資料等保有施設」として内閣総理大臣の指定を受けています。
当館では、「水俣病」に関する資料を公開しています。「水俣病」は、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程中で副生されたメチル水銀化合物を含む廃水により生じたメチル水銀中毒です。工場廃水は「魚(いお)湧く海」と呼ばれる豊かな漁場であった水俣湾と不知火海(八代海)を汚染し、メチル水銀が蓄積した魚介類を食した地域住民に健康被害を与えました。広域に渡る被害の全容が明らかにされない中、認定義務付けや国・県・原因企業に賠償を求める訴訟が複数係争中です。
当館では、映像や音声を含む資料の保存・公開と未来につながる利活用の促進に取り組んでいますが、チッソ水俣工場の廃水により生じたメチル水銀中毒に関する資料の整理と読解および公開には、分野横断的な知識と経験が必要とされるように感じています。よって、学術的な専門家と市民が協働して成果をあげてきた「水俣病研究会」の活動も参考にしながら、資料寄贈者や学内外の複数の関係者と連携し、アーカイビングにおける課題の解決に臨んでいます。

この資料館だからこそ学べる特徴

当館ウェブサイトで目録公開中の所蔵資料の閲覧・撮影複写・貸出し、および所蔵資料に関するレファレンスと企画展示を行っています。メチル水銀中毒事件の概観を知ることはもちろん、詳細な事件史研究に資する資料を提供しています(公害の被害者/患者・行政・市民団体・支援者の活動の記録・岡本達明資料 等)。公開資料はどなたもご利用できますが、所定の手続きがございますのでまずはご連絡ください。
※ 熊本大学史、熊本地域、免田事件、ハンセン病に関する資料も取り扱っています。